メンヘラは今すぐランニング(じゃなくてもいいけどとにかく激しい運動)しなさい

「一度、父から聞かされたことがある。スポ ーツを必死にやってなかったら、どうなっていたかわからない(※”父”は一時期うつ病に苦しめられていた)。スポーツをするのは頭をぼうっとさせるため、なにも考えないようにするためだ。つまり親父は成功したのだ。僕は納得した。親父は人間の条件について真の疑問を感じることなく、人生を全うすることに成功した」

—『プラットフォーム (河出文庫)』ミシェル・ウエルベック

 

初期研修医だったころ、週に2回、必ずスポーツジムのプールに行っていた。”自己研鑽(遅くまで病棟に残って完璧なカルテを仕上げること)”や勉強、飲み会など、働き方改革前夜の研修医に課せられた義務を時に疎かにしてもプールに行った。ビート板とプルブイを使って1000mアップをした後、1000mを16分で泳ぐ。本格的に水泳をしていた人からすると大したことのないメニューだろうが、落ちこぼれの水泳部員だった僕にしてみれば”限界まで追い込む”メニューだった。大学の部活と違って、マネージャーもいないので、いま何往復めを泳いでいるのか自分で覚えておくしか無い。プールサイドにある巨大なストップウォッチを見て、次のスタートのタイミングを計るのも自分一人でやるしか無い。心の中で「今5本めで、次のスタートは下(秒針が30秒)から」などと繰り返しながら全力で泳いでいると、雑念は溶けてなくなる。スポーツジムへ向かう時には、病棟で上級医に叱責されたこと、同期の研修医への嫉妬、将来への不安、当直の予定など不愉快な想念で熱を持っていた頭の中が、プールから出て家路に着くときには不思議に凪いでいる。まさに、冒頭のウェルベック「頭はぼうっとして何も考えずにすむ」だ。

当時はあまり意識していなかったが、今思い返してみると、研修医としてのストレスに対する防衛機制として泳いでいたのは明らかだ。

「脳を鍛えるには運動しかない!最新科学でわかった脳細胞の増やし方」を読んで、当時狂ったように泳いでいた理由が分かった。

タイトルから、今流行りの、筋トレして自信に満ち溢れたアルファな雄/雌になって”サクセス”を手に入れろ的な内容を予想するのは早計だ。この本を一言で要約するならむしろ、「メンヘラが生き残るには運動をして脳内にモノアミンを補充しなければならない」だ。

運動によってモノアミン(セロトニンノルアドレナリンなど)やBNDF(脳由来神経栄養因子)、IGF-1(インスリン様成長因子)などが分泌されると、即座に不安や恐怖といった感情が緩和される。さらに、運動の習慣化は神経回路自体を変化させることにより、不安や恐怖を感じにくくしてうつ病を予防する。しかもその効果はSSRIベンゾジアゼピン抗不安薬に肩を並べるという。たたしここでいう”運動”とは、ウォーキングなどの軽い運動ではなく、最大心拍数の80%で行われる有酸素運動である必要がある。本書には、豊富な神経科学的なエビデンスと、著者が精神科医として経験した実例がバランスよく含まれていて説得力がある。

自分語りに戻らせてもらうと、初期研修を終了して内科の後期研修医となったのだが、とにかく多忙を極めることになる。朝7時から深夜までノンストップの業務をこなして家に帰っても、24時間オンコールのため、患者急変などがあれば深夜でも呼び出されるので気の休まる暇などなく、週に2回ペースの当直と病棟当番があり、完全な休日は月に3回あればいい方という激務で、次第にプールからは足が遠のいてしまった。そんな生活が2年ほど続いた頃、細かい経過は省略するが、うつ病になり休職をせざるを得ない状況になった。

幸いにして現在は復職したが、復職する気力を取り戻すことができたのも、プール通いを再開したからだと思っている。もちろん、抗うつ薬のおかげで運動を再開できるまで回復できたという説明も可能だと思うし、本書も抗うつ薬の有用性を否定しているわけではない。

いちメンヘラとして仲間に伝えたいのは、週に最低2回は激しい運動(最大心拍数の80%)を30分以上して身を守ってほしい、それが多忙でできない環境からは脱出した方がいいよ、ということだ。