The immortal life of Henrietta Lacks (かなり前に)読みました その4

ここでなぜ知的所有権の問題が出てくるのか疑問な読者もいると思います。簡単に説明すると、グラク○スミスクライン社がぼくの細胞を使って新しい医薬品を開発した場合、グラク○社がその医薬品で上げた利益の配分をぼくがもらえるということです。日本人の我々にはかなり突拍子がなく聞こえますが、アメリカでは実例があります。1970年に肝炎の抗体を大量に産生する特異体質を持つ血友病患者が自分の抗体を「売って」お金を得ました。彼(彼女かもしれません)の名誉のために付け加えると、このおかげで肝炎のワクチンが開発されただけでなく肝炎と肝癌の関係が明らかにされて何百万人の命が救われました。
 もう一つのエピソードです。John Mooreは1976年に白血病と診断されUCLA病院に紹介されます。手術を受けた際に彼は、全ての摘出された組織は焼却処分にするという文面にサインしていました。手術後はシアトルに移って普通に生活を送っていましたが、定期的にUCLAで検査を受けていました。シアトルとロスアンゼルスを往復するのは時間もお金もかかるので、John Mooreはシアトルで術後検査を受けたいとUCLAの主治医に申し出ました。すると主治医は「チケット代とLAでの高級ホテル宿泊費を提供するからぜひともUCLAでの検査を継続してほしい」と言って引きとめます。John Mooreはおかしいなと薄々感じていましたが、手術から7年後の1983年になって「あなたの細胞から作られた製品に対する一切の権利を放棄します」という同意書をUCLAから書くよう言われて、疑惑は確信に変わっていきます。
 同意書の催促の手紙がUCLAから送られてくるようになったのでMooreは弁護士に相談します。弁護士が調査したところ、なんと主治医らが勝手にJohn Mooreの細胞を培養してMoと名付けられたCell line(実験用の培養細胞)を開発していた上に、Moを商業利用していたことが明らかになったのです。Mooreに同意書を送りつける数週間前、主治医はMooreの細胞についての特許を出願していたことも明らかになりました。またバイオテクノロジー企業との契約もすでに締結していました。
 1984年にMooreは主治医とUCLAを告訴した。Mooreは自分の訴訟のことなんて誰も真面目に取らないだろうと考えていましたが、この訴訟は全世界の科学者をパニックに陥れます。裁判は上告するたびに判断が分かれて世間の注目を集めることになります。結局カリフォルニア州最高裁はMooreの主張を認めず利益の配分もなされませんでした。
 長いのでここら辺で切ります。次のエントリではHenriettaさんの親族の反応について書こうと思います。