”我々はみな惨事に巻き込まれうる” イアン・マキューアン「土曜日」を読んで考えたこと

土曜日の早朝、不思議な高揚感とともに眼を覚ました脳神経外科医ヘンリー・ペロウンが窓の外に見たものは火を吹きながらロンドン上空を降下していく飛行機だった。ペロウンの脳裏にニューヨーク同時多発テロの光景が鮮明に蘇る。

ここからペロウンの波乱に富んだ土曜日が始まります。同僚とのスカッシュの試合、痴呆の母親の見舞い、そして久しぶりにイギリスに帰ってくる大学生の娘と大詩人の義父も参加することになっている家族の夕食会。夜まで予定がぎっしり詰まった土曜日のはずでしたが、早朝のショッキングな光景が不吉な影を落とします。

ペロウンは車でスカッシュの試合に向かう途中でストリートギャングの乗る車と軽い接触事故を起こしてしまいます。ギャング3人に取り囲まれ、小突きあいが始まります。脳神経外科医であるペロウンは、ギャングのリーダーであるバクスターハンチントン病の明らかな徴候を示している事を見抜き、仲間たちの前でこの事実を突き付けバクスターを動揺させます。病気で動揺するような腰抜けリーダーは仲間たちに見捨てられ、ペロウンは窮地を脱します。

ペロウンはギャングたちとの一件に心を乱されつつも土曜日のスケジュールをこなし、最後の予定である夕食会までたどり着きます。しかし、パーティーの場に突然二人組のナイフで武装した男たちが侵入しペロウンの妻が人質にとられてしまうのです。彼らは強盗ではなく、昼間ペロウンが面目を失わせたギャングのバクスターとその仲間で、落とし前をつけにやって来たのでした。

というのがイアン・マキューアン「土曜日」のあらすじです。主人公のペロウンには何度も破滅的な結末の可能性が覆いかぶさりますが全ては円満に収まっていきます。まず彼が見た飛行機ですが、実は貨物機の単純な事故(しかも死傷者がいない)でテロリストによる攻撃などでは無かったことが明らかになります。さらに彼の家に侵入したギャングもペロウンと息子シーオの連係プレイによって取り押さえられ、家族は無事を喜び合います。

「巨大な災害や大事故に自分が巻き込まれる事を現実の事として考えられる人がどれだけいるだろうか?」というのが「土曜日」の問いかけだろうと思います。「視聴者たちは待ち続けている。次はより重大で、よりひどい事態に。そんなことは起こらせないで下さい。でも、やっぱり私には見せてください、同時中継で、あらゆるアングルから、最初に知る人間に私を加えて。」(p213)。巨大なカタストロフに接した我々は貪るように情報を求めます。そうすることで大惨事から逃れた自分たちの幸運を確認し、この先も自分が当事者になることはないとの確証を強めるのではないでしょうか?災害や犯罪によって破滅的な結末を迎えないことをこれでもかと強調することで逆説的に我々に「あなたも惨事を体験し得る」事を指摘しているのが「土曜日」ではないでしょうか?確かに災害や犯罪を主題にした映画や小説は数多くあり、その大部分において主人公が生還するという結末をとります。しかしながら、「土曜日」ではそもそもテロはペロウンが貨物機の事故から想像したものにすぎず全く実態を持ちません。またペロウン家への暴漢の侵入も非常に不自然な形で解決されます(バクスターがペロウンの娘に詩を朗読させたところ、バクスターはその詩に感動して多幸状態になりペロウンとシーオに対して隙をつくってしまうのです)。

このことは「幽霊だの、天使だの、悪魔だの変身だのはもうたくさん。どんなことでも起こりうる場所では、何事も重要な意義をもちえない。」(p82)というペロウンの独白によって裏付けられています。この部分は、ペロウンが文学(特にファンタジー要素の強い文学)になじめない理由として語られるのですが、違った見方も可能なように思われます。すなわち、「土曜日」という小説であるからこそペロウンはカタストロフを回避できた訳で、「現実の」ペロウン達(とりもなおさず我々自身の事ですが)はテロ攻撃や無差別な犯罪から逃れることはできないのです。