“ヨーゼフ・メンゲレの逃亡”とワクチン

精神的に落ち込んだとき、奇妙に惹きつけられるものがある。ノンフィクションやドキュメンタリーである。それも成功した起業家やアスリート、芸術家のそれではなく、非人間的な独裁者や異常な犯罪者、過去の悲惨な事故を扱った類だ。なぜ?と思われるかもしれない。暗い気分に更に拍車をかける、自傷めいた、まだ癒えきらない傷口を爪で弄るような悪趣味な喜びだろうか?

 

人の心裡には邪悪が潜伏感染している。結核菌が肉芽腫に、ヘルペスウイルスが神経節に、強大な免疫力によって閉じ込められているように、精神的に安定しているとき、邪悪は理性によって抑え込まれ、意識の表面に上ってくることはない。メンタルのバランスが崩れ、理性の支配が緩んだときに邪悪は人の行動を支配するようになる。加齢やある種の免疫抑制治療が結核菌やウイルスを制御不能の顕性感染にするように。

 

おぞましいノンフィクションは、疑似体験によって邪悪への新鮮な嫌悪感を呼び起こし、邪悪の囁きに耳を貸そうとする弱った心の免疫を増強するワクチンの作用があるのではないか。このアナロジーが妥当なものならば、不活化された病原体やその断片をワクチンとして使うように(当然の話であるが、病原体そのものを投与することは“感染”を引き起こし本末転倒である)、“不活化”された邪悪が必要である。

 

同時代的な事件や事故は、その“リアリティ”ゆえに強い邪悪への嫌悪感を呼び起こすだろうが、人生観や精神に対して不可逆的な傷を残しかねない諸刃の刃たりうる。古代の暴君の所業は遺跡や石像の世界に閉じ込められ、嫌悪感を引き起こすよりもむしろ神秘的な色彩を帯びる。“不活化”された邪悪とは、21世紀初頭の日本人の立場からみて、強い“リアリティ”を感じるほど身近なものであってはならず、あまりにも歴史的で檻の中の猛獣のように恐怖を抱かせないものであってもならないのだ。ゆえに“不活化”された邪悪は、モノクロ写真やコマ数の足りないサイレント映像の中に閉じ込められたものであるべきである。 

 

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ヨーゼフ・メンゲレナチス・ドイツ時代の悪名高い医師であり、アウシュヴィッツ強制収容所で常軌を逸した人体実験(もっとも有名なのが外科的手術による「結合双生児」。カルト映画「ムカデ人間」のヨーゼフ・ハイター博士のモデルがヨーゼフ・メンゲレである。)を繰り返した。戦後、ナチス・ドイツ政権下で人体実験や優生学による民族浄化を主導した第三帝国医学界の重鎮を裁いたニュルンベルク継続裁判「医者裁判」から逃げおおせ、南米に逃亡した。

 

ヨーゼフ・メンゲレの逃亡」は厳密にはノンフィクションではなく、ヨーゼフ・メンゲレの南米での潜伏生活を“ジャーナリスティック”な手法で描いた小説で、基本的にはメンゲレの一人称視点から展開される。親ナチスの独裁者ペロンが支配する戦後のアルゼンチンに、身分を偽って密航するところから始まり、現地のナチス・コネクションの中で頭角を現していくメンゲレ。アルゼンチンのドイツ人社会は、ナチス時代を忘れられず、戦後の西ドイツに反ユダヤ的な国家社会主義体制を再建することを夢想していたが、(メンゲレと同じくアルゼンチンに潜伏していた)アドルフ・アイヒマンイスラエル諜報機関に拉致され裁判にかけられると、「戦後民主主義体制」の強固さを知り、ナチス体制の復興が不可能な事実を突きつけられる。メンゲレもアイヒマン逮捕のニュースに恐慌を来たし、一旦はアルゼンチンで築いたビジネスを捨て、以降は南米各地を転々とすることになる。

 

オリヴィエ・ゲーズによって語られるメンゲレ像は、おぞましいまでに自意識が肥大し、他人が自らに奉仕して当然とみなすサイコパス、そして豪邸や高級車などの現世的な利益に人一倍執着する俗物だ。メンゲレは逃亡先で様々なナチスシンパやナチスの大物に金で雇われた現地人の助けで生き延びる(そして最終的には法の裁きを受けずに逃げ切るのだが)が、第三帝国の医学博士たるヨーゼフ・メンゲレに対して精神的・物質的にさらなる奉仕がなされて然るべきと、いつでも周りに対して不満でいっぱいだ。最後はブラジルのスラムに落ちぶれ、介護が必要な状態になり、献身的な介護人がいるにも関わらず周りの人間や社会からの扱いの“不当さ”に憤りを感じながら死ぬ。周りで世話を焼いてくれるシンパに対しても、さらなる奉仕と献身がないことに対して不満タラタラなのだから、もちろん犠牲になった被害者に対する贖罪の意識など微塵もない。あまりに自己中心的な姿に恐怖で背筋が寒くなる話だ。

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↑ヨーゼフメンゲレが死の直前まで住んだスラム街のバラック