ベンヤミン”複製技術時代の芸術作品”

 「写真などの複製技術の発展にともなって芸術作品のアウラ=オーラ(権威・僕らが芸術に抱く一種の共同幻想)は滅びて行く」というのがこの本の言わんとすることのようです。

 写真以前にも模写や版画などの複製技術はありましたが、これらの技術は写真の持つ実物への忠実さに比べるとどうしても劣ってしまいます。はっきり言ってニセモノに過ぎないのです。一方写真や録音は、実際の絵画やオーケストラの演奏をほぼ完全にコピーすることが可能です。

 しかし写真や録音技術が革命的なのは忠実さゆえではありません。これらの新しい複製技術は、芸術作品と受け手の関係を完全に新しい経験にしてしまうが故に芸術作品のオーラを損ないうるのです。それは、「オリジナル(およびその作者)には想像もできない空間に複製を運ぶことができる」からです。写真集に収めれば巨大建築を家の中で鑑賞できます。また、オーケストラの演奏を聴くためにはコンサートホールに正装をして出かけていく必要がありましたが、レコードに録音してしまえば家でリラックスしながら楽しむことができます。例え全く同じ演奏だとしても、コンサートホールで聴くのと家のソファでレコードを通して聴くのでは全く違った経験です。一つの作品が様々な形で鑑賞されうるとき、一回限りの真正性(アウラ=オーラ)は消滅します。

 一番面白いと思ったのは、最初から終わりまで連続した舞台とは違い、細切れのシーンの撮影を繰り返して作る映画は根本的に違うという話です。映画俳優は一種のコラージュの材料を作るだけなのでアウラを持ちえない、とベンヤミンは主張します。これで連想したのはニコニコ動画Youtubeによくある「MAD」という奴です。「MAD」とはテレビ番組や映画、アニメのシーンを切り取って好き勝手につなぎ合わせたりオリジナルにはない字幕や音楽を付けた素人の映像作品です。ベンヤミンの映画に関する論考の射程を拡大すると、MADの素材になることを初めから意図したようなドラマやアニメが出現するかもしれない・・・(もしかしたら既に存在するかもしれませんが)。そしてその時「オーラ」は何に宿るんでしょう?